泉卓真氏へのインタビュー第6回。前回はご本人の人間性に迫るべく、同氏の考える社長像について、また得意なことや苦手なことを語っていただきました。
今回は時をさらに前に戻し、北海道で生まれ育った泉社長がどんな少年時代を過ごしてきたのかをインタビューしてみました。
祖父の介護を役割分担していた幼少期
──それではもう少し踏み込んで、泉社長の幼少の頃のお話を伺ってもよろしいでしょうか。泉社長は、お生まれは北海道なのですよね。
泉 はい、そうです。当時いくつかの「大変」があったなと思っていて、その中でも大きかったのは介護かな。
私の家は2世帯・6人で暮らしていたのですが、僕が物心ついた頃には既に、祖父が話ができず、身体も動かないという状態だったんですね。つまり介護をしなければいけなくて。
介護って、24時間トイレからお風呂まで全部お世話をしなければいけませんでしたから、僕は男手ということもありますし、身長170㎝以上の大の男の人を、担いでお風呂やトイレに行かせたり、散歩に連れて行ったりしていました。
経営者には絶対ならないと決めていた
泉 そんななか、父親の事業が失敗しました。
父は昨年亡くなったのですが、典型的な「零細企業の社長さん」で、財務や数字の事は大の苦手という人でした。創業時こそ私は父親を反面教師にしましたがそれこそ経営者になるほんの少し前までは、「自分は絶対に経営者にはならない」と固く決めていたくらいでした。
──その幼い頃の記憶の中で、今のお仕事にも繋がるものは何かありますでしょうか?
泉 はい、たくさんありますよ。まず父親が、うまくいったかどうかは別として、経営者だったということで、僕もそれを強く意識しましたよね。自分は経営者にはならないぞ、という意味で。経営者になると失敗する、家族を不幸にすると思いました。
そんな感じで、自分はもっと安定した仕事をしようと思っていたのですが……これはこれで意識しているでしょう? 「ならない」とは言っていたものの、経営者というものの存在自体は、小学校3年生くらいの時点で、誰よりも早く意識していたと思います。
もちろんそう意識していた分だけ、ならないように、近づかないようにとしていたのですが、結局社会人になって仕事に励んでいると、その延長線上に経営者になるための術があったんですよね。つまり、社会人になってからはそれを学んでいく日々だったわけです。
泉卓真の人生を変える「先生」との出会い
それと、小学3~4年のときの先生が、本当に素晴らしい先生だったのでよく覚えています。昔『GTO』というテレビドラマがあったのですが、あれを地で行くような先生でした。
朝から教室ではブルーハーツの『リンダリンダ』がかかっていて、子供達を力を使っては絶対に怒らない先生で、「俺の生徒には、目標にしたもので1位を取れねえやつなんているわけがねえ!」みたいなことを言っていて。すごい先生でしょ。あと「もう今日は授業全部やめた! 6時間目まで全部体育だ!」とか言ったり、「今から映画見に行くぞ!」なんてこともありました。
今、同じことをしたらとんでもない事件になりそうですが、子どもがのびのびとするような自由度の高い教育を学校に反対してまでやり続けた先生で、保護者からも大人気で圧倒的な支持がありました。そういう先生に、僕はもう大変に感化されてしまってですね。僕らって特別になれるのだなと思ったのを覚えています。子どもを絶対に否定しない、素晴らしい先生だったと思いますね。
――子ども本人に自らを特別な存在だと思わせるというのは、他の何にも代えがたい教育ですね。
泉 本当にそうだと思います。この先生、朝から夜まで大体毎日、子どもたちと一緒にいるんですよ。夏休みや冬休みになると、今度は10日とか20日間連続で20人くらいでキャンプに行ったりするので、もう年がら年中一緒。年間通して全然休んでいませんでしたし、365日のうちの350日ぐらいは子どもといたと思います。
まあ、色々な意味でなかなか考えられない先生でしたけど……幼少時代といえば、そのあたりが強烈なエピソードですね。ちなみに少し前に、その先生とは35年ぶりに再会しました。私が探したんです。今の私を作ったのはその先生と言っても過言ではないですからね。
――お元気でしたか?
泉 元気でした。今も変わらず、嘱託ですが教壇に立っているそうです。先生にも娘さんがいるらしく、僕たちみたいに教育したんだったらもう経営者かなにかになっているんでしょうと冗談交じりに聞いたら、「そんなに立派になってねぇよ! でもな、東大の大学院を卒業して、今はIT会社にいるわ」って(笑)。相変わらず期待通りの返事でした。
娘さんに勉強しろって言ったことあるかと聞いたら、やっぱりないそうです。「勉強なんていいから俺と遊んでくれっていっつも言っていたんだけど、遊んでくんねぇんだよな」、なんて言っていて(笑)。さすがだなと思いましたね。
スコップを持ちたくなくて専門学校を中退
泉 あとはもう、小中高と特に語るべき出来事は何もないように思いますが……ああ! 今につながることと言えば、最後のきっかけは土木の専門学校に入学して即挫折したことですね。
──入学後、即挫折というのもパワーワードですが、分野が土木だったということにも驚きです。
泉 私は高校卒業の最後の年末になっても進路が何も決まっていなかったので、学校の先生が困った顔をして、特に何も考えずに持ってきたであろう土木の専門学校のパンフレットを私に手渡してきたんです。それをそのまま親に渡したら、入学することになって。締め切り当日に申込書を自分で直接学校まで持って行ったくらい、スケジュールもギリギリでした。
こうして「何でもいいから手に職を」といわれて土木の専門学校に入ったのはいいものの、最初の授業で「違うな」と思いました。測量するのに穴を掘れと言われたのですが、スコップを持った瞬間、びっくりするぐらいやりたくないアレルギーが出たんです。そこで「スコップは嫌だな」と気が付いて。経験は大事だと言いますし、入学する前にスコップを一度持ってみればよかったかな(笑)。
そんなことでしたから当然、父親は怒っていました。入学金として200~300万円払ってもらって、すぐに学校へ行かなくなったわけですから。結局、1年は在籍したものの、進級できないということになって退学しました。
──そして土木の専門学校を中退して、北海道の大手回転寿司チェーン店の正社員になられるわけですね。
泉 そうです。アルバイトをしていたお店で相談して、そのまま社員にしてもらいました。
【次回】
泉社長は祖父の介護や父親の事業の失敗、専門学校での挫折等、幼少期から青年期にかけて数々の体験をしながらも、素晴らしい先生との出会いや本人の経験そのものを糧に、実は社長となる日に向けて備えてきていたことがわかりました。
次回は専門学校を中退した泉社長が、その後どのような社会人生活を送ったのかに追ります。今も「素晴らしかった」と泉社長が振り返る、貴重な会社員時代の教えとは。そして泉社長が転職地獄に陥ったきっかけとは。